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ただ波に乗る Just Surf

サーフィンのエスノグラフィー

ただ波に乗る Just Surf

いちサーファーとして活動した記録から、サーフィンという身体文化に内在する差別や抑圧の構造を解きほぐす

著者 水野 英莉
ジャンル 社会 > 社会学
社会 > 文化研究
社会 > ジェンダー
スポーツ
出版年月日 2020/03/30
ISBN 9784771033566
判型・ページ数 4-6・204ページ
定価 2,640円
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

 第Ⅰ部 サーフィンのエスノグラフィーのために

第1章 サーフィン、スポーツ、ジェンダー
 1 サーフィン研究とスポーツ
 2 ライフスタイルスポーツとしてのサーフィン
 3 日本での広がりとボディボード
 4 サーフィンをする女性の身体
 5 残された課題としての一般女性サーファーの経験

第2章 経験を記録する
 1 オートエスノグラフィー
 2 フェミニストエスノグラフィー
 3 本書の調査について

 第Ⅱ部 〈女性〉が経験するサーフィン

第3章 サーフィンを始める
 1 あこがれから現実に
 2 ボディボードからのスタート
 3 大小の壁
 4 ショップで見聞きする話

第4章 男同士の絆
 1 ショップとチーム員
 2 集団の上下関係
 3 男らしさの表現
 4 セクシズムを正当化する論理

第5章 差異化戦略とその限界
 1 三人のボディボード仲間
 2 ショートボードへの転向
 3 差異化される女性/差異化する女性
 4 流動的な地位

 第Ⅲ部 オルタナティブなゴールに向けて

第6章 ショップをこえて
 1 移住生活
 2 オーストラリア合宿
 3 コンテスト
 4 引っ越しとショップ迷子

第7章 サーフィンの再開
 1 サーフィン・ソーシャル・フイ
 2 バタフライエフェクトというイベント
 3 サーフフェミニズムを実践する人たち

終 章 理想の空間をめざして
 1 困難さとは何だったのか
 2 オルタナティブな身体文化


おわりに

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内容説明


サーフィンという身体文化に内在する抑圧を、内側から描き出す。


夏の風物詩、健康的なライフスタイルを表現する効果的な記号として用いられてきたサーフィン。
東京2020オリンピックの正式競技になり現実的なスポーツ種目としても注目を集めている。

(どちらかというと上手ではない)いちサーファーの記録を通じて、サーフィンの世界に内在する差別・抑圧の構造をときほぐし、サーフィンがもつ可能性を模索する。



「ただサーフィンがしたい。(I just want to surf)」

日常に戻らなければならないときにサーファーがよく口にすることば。
それは、私にとっては、「女性」のサーファーであることを繰り返し迫られることへの抵抗感を含んでいた。
本書は、日本に生まれ育ち、女性であり、社会学の研究者である私が、どのようにサーファーになり、ジェンダーについて考え、サーフィンを基軸としたライフスタイルを作っていったのかを記録したものである。


 
カバー photo by Atsuko Sekiguchi
装幀 HON DESIGN(小守 いつみ)

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ためし読み

はじめに

 本書は、海の崩れる波に乗るサーフィンという身体文化への入門から、いちサーファーとしてのアイデンティティを形成するまでの個人的体験を詳細にたどった記録である。日本に生まれ育ち、女性であり、社会学の研究者である私がどのようにサーファーになり、さまざまな人とのかかわりの中でサーフィンを基軸としたライフスタイルを作ってきたのかを記述するものである。
 本書が特に焦点を当てるのがジェンダーの問題である。「ただサーフィンがしたい(I just want to surf.)」というのは、サーフィンの楽しさに夢中になったサーファーが、学校や職場、家庭生活などの日常生活に戻らなければならないときに、悲しげにあるいはもどかしげに口にすることばだ。私も他の多くのサーファーと同様に「ただサーフィンがしたい」と思ったが、それは日常生活からの逃避という意味あいに加えて、「女性」のサーファーであることを繰り返し迫られることへの抵抗感も含んでいた。サーフィンを通じ、周囲とのかかわりの中で自分自身のジェンダーについて考え、再認識し、男性が主体の世界における少数の女性であるということの意味を思い知らされもした。何をするにも「女性であること」から逃れられなかった自分にとってのサーフィンの研究は、ジェンダーを無視したサーフィンの経験として一般化することはとうていできず、むしろサーフィンを通じて経験したジェンダー問題をそのまま具体的に示していくオートエスノグラフィー/フェミニストエスノグラフィーとなっていった。
 スポーツの世界には性差別に限らず概して暴力の問題が根強く存在することは、頻繁に報じられるニュース等からも周知の事実である。こうした問題を扱うスポーツとジェンダーの研究も蓄積されつつあるが、スポーツを行うフィールド内のみで起きる問題を扱っていたり、研究者が外側から調査を行っていたりすることが多く、当事者自身となってその社会を描き出していることは少ない。当事者であることが研究・調査の優位性を担保するものではないが、外側からは見えにくい隠されがちな暴力の問題構成を明らかにし、是正していくためには、フィールドの内側から日常的な相互作用やジェンダー・ダイナミクスを描き出すオートエスノグラフィーの手法はもっと注目されていいのではないだろうか。
 こうしたことから、本書の目的は、サーフィンという社会的世界におけるジェンダー問題を調査者自身の経験を通じて明らかにすること、さらにはスポーツの経験をスポーツの行為そのものの肉体的次元のみならず、それを取り巻く日常生活まで包括的に扱う視点を提供し、その有効性を示すことにある。このことは、スポーツの世界のジェンダー問題を把握しまた是正をめざす際に、オートエスノグラフィーがいかに有効な手段であるかについても明らかにするだろう。
 本書は二つの主題から構成されている。ひとつは、「女性」のサーファーであることによる経験についてである。男性サーファーたちのグループと出会い、サーフィンを始め、どのように居場所を作っていこうとしていたかを記述している。もうひとつは、サーフィンを継続できないような壁に突き当たったのち、どのように自分なりに納得する立ち位置を作っていったかについてである。ここでは男性中心的な集団、競技性やセクシズムの限界を指摘し、オルタナティブなゴールを模索することを焦点としている。
 コンテストにおいて華々しい活躍をしたわけでも、文化全体に影響を与える貢献をしたわけでもなく、むしろ運動能力もコミュニケーション能力も劣るといってもいい人間のサーフィン経験を記述するこのような研究を行う理由は、サーフィンの社会文化的な研究が、中心から(文化的、社会的、人種的、地理的、階層的等)外れた位置にあるサーファーの経験を主題としてこなかったからである。これまでの研究がこれを無視してきたわけではないが、概してトップアスリートやメディア、スポーツ自体の直接的な経験に限られていたり、北米やオーストラリア、ニュージーランド等にフィールドが定められたりしている。しかし「白人、男性、中産階級、アスリート」が社会文化経済の中心をなす現代サーフィンの世界が成り立つためには、必ず周辺を必要とする。にもかかわらず、研究は後者を取りこぼし、辺境でこれを下支えする人たちについてはほとんど把握してなかったのである。グローバルなサーフィン世界を可能にするのは、何年続けてもあまり上達することもなく、しかしサーフィンを心から愛してやまない私のようなサーファーなのだから、サーフィンを研究主題として論じるためにはこの作業を付け加える必要がある。
 本書でサーフィンの世界のジェンダー・ダイナミクスを描くことは、単に特定の趣味の人たちの世界において個人が経験した性差別を捉えるということを意味するのではない。むしろスポーツという身体文化に深く内在する性差別の問題と、複雑に絡み合う利害、解決の困難さを内側から解きほぐしていくことを意味している。グローバルなサーフィン世界の末端の経験から構造の問題性を捉え、抑圧のない身体文化の可能性を模索する試みである。

 私が本書で記述するサーフィンの経験は、一九九四年一一月に東海地域の都市部にあるサーフショップ・レノックスのサーファーたちと知り合ったことに始まる。友人に誘われた食事の場に、このショップに通うサーファーが数人来ていた。当時の私は大学院修士課程の一年生で、シカゴ学派社会学や日本の社会学者のエスノグラフィーに関心を持っていた。研究テーマについて絞り切れておらず、サーフィンをして遊んでいる暇はないのではという考えも頭をよぎったが、幼いころから一度やってみたいと思っていたものの、周囲にサーフィンをしている人がいなかったので、貴重なチャンスに思え、彼らの通うショップに連れて行ってもらった。このショップとの出会いが私のその後のサーフィンライフの、そしてフィールドワークのスタートとなる。
 はじめてサーフィンをしたのはそれから五か月後の一九九五年四月である。初心者でも始めやすいおだやかな季節になるのを待ちながら、サーフィンをするための用具を購入するなどして準備を整えていた。用具類は最初から新品を購入する必要はない、慣れたら自分に合うものを選べばよいとアドバイスを受け、中古の品を格安で譲り受けたり、不要になったものをもらったりした。
 その間、ショップを何度も訪れているうちにわかってきたのは、ショップに頻繁に来るメンバーたちは、互いに仲が良く、サーフィン以外の時間もよく一緒に過ごしているということだ。地元の中学・高校などの同級生や先輩・後輩関係にあり、そのなかでサーフィンを始めるきっかけを比較的若い時期につかんでいる。サーフィンに関するスキルや知識などは、ハウツー本・ビデオ等を通して学んでもいるが、ローカルな知識は明文化されておらず、長い時間をともに過ごし、経験者と会話するなかで徐々に学び取られていた。また彼らはサーフィンを始める前から互いを知っている場合も多く、共有する記憶もある。笑い話や懐かしい話が頻出し、陽気で楽しい空間が作り出されていく。こうしたことを見聞きするうち、サーフィンはサーファー自身の生活のなかで大きな位置を占めること、そしてその過程においてサーファー同士の仲間関係は重要な意味を持つことを知ったのである。
 そのころ二〇代から三〇代だった彼らの仲間関係にとって、彼らの言うところの「女/女の子」は欠かすことのできない存在であることもすぐにわかった。サーフィンやサーファーに興味のある若い女性は彼らの周囲にひっきりなしに現れるように見えた。ショップにも、サーフィンに行くときにも、飲み会にも、会話にも登場する。つきあう相手として、遊ぶ相手として、結婚相手として、あるいはサーフィンを楽しむ仲間としての「女/女の子」は、彼らのサーフィンのモチベーションであるようであったし、また彼らの仲間関係の維持・強化の機能を果たしているようでもあった。
 サーファーというと、「女/女の子」に加え、酒やドラッグ、少々軽装すぎる服装や気ままな生活などが一般的には連想されるかもしれないが、実際にはどんなに疲れて帰宅しても寝る前にストレッチを欠かさない人や、ランニングや筋力アップのトレーニングを地道にしている人、たばこを控える人、常日頃から注意深く体重管理をする人もいて、意外にストイックな面もあった。週に一、二回程度しか海に行くことのできないサーファーが、その大切な日に楽しくサーフィンをするためには、身体のコンディショニングは重要なことなのだろう。力強い自然と相対するサーフィンが、日常の習慣を軌道修正させていくことを知った。
 生活がサーフィンを軸としたものになっていくのに、サーフィンが海の波をフィールドとする身体活動であることも関わっていた。よくサーファーの口から「波しだい」ということばを聞いたが、サーフィンにとって理想の波が崩れるための気象条件がそろうのは難しく、サーファーたちは常に気象予報をチェックし、波に合わせてスケジュール調整をしていた。人によっては仕事を週末に残さない、あるいは妻に土曜日だけはサーフィンをする日として家族サービスを免じてもらっている、またはいつでも波の良いときにサーフィンに行くために人との約束を入れない、などの工夫がされていた。気象に左右され、フィールドが固定されていないサーフィンのような活動は、学校や職場などのように毎日同じ時間拘束される活動と相いれない。よって、サーファーによっては海のそばへの移住や、拘束されにくい仕事や学習のスタイルへの変更も珍しくなく、「波しだい」のライフスタイルが誘発されやすいということを私は知ることになった。そうしてサーフィン開始のための準備期間は無事終わり、このショップのサーファーたちとサーフィンをするようになっていった。
 その数年後、関西地域のサーファーと徐々に知り合うようになった。私は専攻を社会学に変えて修士課程からやり直すために関西地域へと引っ越したからだ。なじみのあるサーファーたちや通いなれたサーフポイントとの別れはつらく、しばらくは地元に帰ってサーフィンをしていたが、たくさんのサーフィンを愛する女性たちとの出会いは、新しい世界への扉を開いてくれた。「旅」というサーフィン文化の中心を成す実践にアクセスできるようになったのもこれ以降で、全国で開催されるさまざまなコンテストやイベントに、女性たちと一緒に出かけるようになった。旅から得られるものは、良い波の記憶、思い出の共有等ももちろんあるが、それよりもむしろ強烈な印象として残るのは、日常から切り離されたところで生き抜く知恵や行動力が試されたこと、自分の未熟な部分や弱い部分と直面せざるを得なかったことなどである。旅はサーファーにとっての修養機会となっている。本書の後半部分は、海外への旅、競技について、そしてどのようにサーフィンを続けていくのかについての、失敗と葛藤の経験である。自分自身のサーフスタイルを見つけ、女性たちとの友情を築き上げながら、サーフィン文化の新しい可能性を考えるに至るまでの記録である。

 本書の構成は、大きく三つのパートからなる。「第Ⅰ部 サーフィンのエスノグラフィーのために」、「第Ⅱ部 〈女性〉が経験するサーフィン」、「第Ⅲ部 オルタナティブなゴールに向けて」である。

 第Ⅰ部では研究の視座と方法と題し、先行研究の批判的読解と本書の視点・方法の提示を行っている。サーフィンをどのような視点で読み解くのかを示しながら、主観的な経験や感情の動きまでを含めたオートエスノグラフィー、ジェンダーやフェミニズムの視座を取り入れたフェミニストエスノグラフィーという方法がなぜこの研究に必要なのかを論じている。第Ⅱ部ではエスノグラフィーの中身に入っていくが、サーフィンを始め、男同士の深い絆によって形成されているサーファーの世界における私自身の経験が〈女性〉サーファーの経験になっていく様子を紹介する。そのなかで行った生存戦略とその限界についても示している。第Ⅲ部はサーフィンがライフスタイルとして定着していくプロセスの後半であり、またセクシズムからいかに逃れ、オルタナティブな共同性を見出していったかについて書いた。
 本書の元になったのは修士論文、博士論文、そして学術誌や学術図書の一部としての論文であるので、研究者にはぜひ第一部から通して読んでいただければと思う。学術書に慣れていない方には読みづらいところもあると思うので、具体的な経験の記述が始まる第Ⅱ部から読み始めるのもお勧めである。マリンスポーツをある程度長く経験したことのある女性には、似たような経験を思い起こしていただけるかもしれない。ただし、第Ⅰ部では日本のサーフィン界ではほとんど話題にならないようなニュースにも触れているので、読み飛ばしながらでもよいので眺めていただけると嬉しいと思う。また、サーフィンを愛する人には性別にかかわらず、どうすればサーフィンがより成熟した多様性を受け止めるスポーツになるか考える契機にしていただければと願っている。すべてのスポーツを愛する人、ジェンダーやセクシュアリティの研究者、ふと目に留めてくださった方、みなさんに読まれ、スポーツにおけるジェンダー公正が少しでも進んでいくための一助になれば幸いである。

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