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作田啓一の文学/社会学

捨て犬たちの生、儚い希望

作田啓一の文学/社会学

作田の軌跡を辿り直すことで、その思想のアクチュアリティを問う。

著者 佐藤 裕亮
ジャンル 社会 > 社会学
文学
出版年月日 2022/02/28
ISBN 9784771035928
判型・ページ数 A5・274ページ
定価 4,180円
在庫 在庫あり
 

目次

序 章 作田啓一の“分裂”、あるいは「文学/社会学」という学術的営為

第1章 「日本社会」という謎
    ――〈アノミーと欲望の問題系〉と、〈罪と赦しの問題系〉
1 戦後日本社会の成立と、〈アノミーと欲望の問題系〉
2 戦争犯罪と、〈罪と赦しの問題系〉
3 日本人の〈罪と罰〉――「懊悩」と「救済」の狭間で
4 〈漏れ落ちる者たち〉の“声”

第2章 ユートピアとしての〈過去〉
    ――ルソーにおける「楽園喪失」のヴィジョン
1 人間の堕落――ルソーにおける「市民社会」批判
2 「退行」と「ユートピア」――「悪」を測る物差しとしてのルソー
3 「放心状態」、あるいは「おくれる」ことの希望
4 「隣人」との関係、あるいは「合唱」の難しさ
5 「楽園喪失」をめぐって――今村仁司の媒介論との比較

第3章 「種子を蒔く人」
    ――〈未来〉としての〈子どもたち〉
1 「社会」に降りたルソーとしてのムイシュキン
2 社会の〈いけにえのための死〉と、〈再生のための死〉
3 新たな〈父〉として生き、この世界の〈再生〉に賭けよ

第4章 「楽園喪失」の再検討
    ――デュルケムとラカン理論
1 「孤独論」(一九九八年)の前半――「純粋なもの」への傾斜と「瞬間」の発見
2 〈死〉と「瞬間」――「文学・芸術におけるエロスとタナトス」(一九九六年)
3 「孤独論」の後半――「近代」における孤独と『自殺論』
4 「アノミー」と「倒錯」――ラカン理論による「アノミー」への接近
5 「倒錯」と「法」の関係――ラカン‐ジュランヴィルから
6 空虚感への処方箋――ボロメオの結び目からの説明

第5章 瞬間・隙間・偶然性
    ――〈他者〉の現れる時‐空間
1 〈生の欲動〉と「現実界」――「原初の混沌」の残余として
2 夢の世界のリアリティと、〈他なるもの〉への感受性――島尾敏雄論
3 瞬間・隙間・偶然性――ありそうもないことが起こること
4 「偶然性」と「社会学」

第6章 「死(にゆく)者」、あるいは天使
    ――作田啓一の晩年の思想
1 「自我の放棄」――生活の破滅と、死への接近
2 「放心状態」と「無辜」――〈他者〉から「死にゆく者」へ
3 古井由吉『祈りのように』論――二つの「死者の立場」
4 救済の時――チェーホフにおける「希望」の構造
5 曖昧な生と死――老いゆく過程を生きることと、「天使の視線」
6 「死を抱えて生きること」の社会学

結論にかえて――儚い希望の社会学

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内容説明


「生きているということ」は謎である


戦後の日本社会学界を牽引した作田啓一。彼はなぜ文学や哲学などの社会学の外部を参照し続けたのか。その仕事は、社会学という知に何をもたらすのか。半世紀以上に渡る作田の軌跡を辿り直すことで、その思想のアクチュアリティを問う。

 



作田は「文学」の中でもとくに太宰治などの日本近代文学の作家や、ルソー、ドストエフスキーといったような、一般に「社会不適合者」と呼ばれるような思想家・小説家の仕事を重視した。その結果、……作田が社会を見る際の視座それ自体、社会から〈漏れ落ちる者〉に立脚している。〈漏れ落ちる者〉は、現存する社会から爪弾きにされ、うまく生きることのできない〈捨て犬(stray dog)〉である。〈捨て犬〉の生は弱く儚い。しかし、作田はそのような〈捨て犬たち〉の生(life)に宿る〈力〉が照らし出す「希望」を探し続けた。(「結論にかえて」より抜粋)


著者紹介
佐藤 裕亮(さとう ゆうすけ)
1989年長野県生まれ。早稲田大学文学部卒業。立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻を経て、同大学院社会学研究科博士後期課程を修了。博士(社会学)。文学、批評(「思想」の代替としての)との関連から、戦後日本社会における「社会学」のあり方を研究。主要論文は、2019年「作田啓一における"分裂"」『ソシオロジ』64巻2号。


カバー写真 江成常夫
装幀 安藤紫野

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ためし読み

まえがき

 ふつう、私たちは、自分が「生きているということ」は「自然なこと」「自明なこと」で、取り立てて問うべきことではない、と考えている。
 しかし、ふとした拍子に、自分と世界との絆が断ち切られることがある。世界と自分とのあいだに広がる裂け目に落ちたとき、自分が生きているということ、世界があるということへの違和が生じる。この世界で自分独りだけが除け者であるような感じ。捨てられた犬(stray dog)のように、自分がいつから、なぜここにいるのかもわからず、孤独感と無力感だけが確かな、惨めな生(life)がある。
 捨て犬と似た言葉に「負け犬(underdog)」がある1)。負け犬は、社会の競争に敗れ、落ちぶれた者のことだ。競争は、ルールという形式的な公平性に基づいて実行され、結果として、世界を勝者と敗者に分ける。その意味で勝者と敗者はルールを共有する同士である。しかし捨て犬はそのルールを共有していないばかりか、そもそも競争に参加する資格すら与えられていない。したがって、捨てられていること、世界と無縁であることは、競争の外にいるということだ。
 ところで、私たちは往々にして、捨て犬の惨めさを負け犬の惨めさと取り違える。捨て犬は「負け犬の中の負け犬」、「社会の底辺」なのだ、と。その取り違えは捨て犬自身にも伝染する。自分を負け犬と取り違えた捨て犬は、後ろ暗い感情(ルサンチマン)を抱きながら、社会に対する反抗(rebellion)を企てたり、「負けるが勝ち」などと、もっともらしいことを言ったりする。
 たしかに、「社会」は何食わぬ顔をしながら私たち人間の「生」を規定する「力」である。私たちは自分の意思とは無関係に「社会」の中に生まれ落ちる。「社会学」は、私たち人間の生(life)を規定する「社会」という「力」を分析して、解きほぐす学問だ。本書が対象とする作田啓一は、戦後日本社会学界を牽引した「社会学者」であり、そのような「社会」という「力」を解きほぐすための様々な概念を考案した理論家として知られている。
 ただし、作田は同時に、「文学」や「哲学」などの参照を通じて、つうじょうの「社会学」の視点からはしばしば漏れ落ちてしまいがちな、人間が「生きていること」自体の不思議さや人間の生きている現実の不思議さについて、その生涯に渡って、考え続けた人でもある。したがって作田の仕事には狭義の「社会学者」の仕事とは異なった含みがある。
 私たちは、ふとした拍子に自分が生きているということへの違和を感じることもあれば、不意に、自分の身体のすみずみから〈力〉がみなぎり、生きていることの歓びがあふれ出し、何でもできるし、何にだってなれるという感覚を抱くことがある。人間の〈力〉は、「社会」という「力」とは種類が異なるものだけれども、作田は、そのような人間の生に宿る〈力〉の実感を大切にし続けた人でもある。
 本書は作田啓一という「社会学者/思想家」の軌跡を辿り直すことを通じて、作田思想のアクチュアリティを問う研究である。果たして、作田は「文学」や「哲学」などの「社会学の外部」を参照することによって、「社会学」という知の枠組みをどのように拡張・変容しながら、「生きていること」という問いと格闘したのか。以上が、本書を貫通する研究上の問いである。
 この点、思想のアクチュアリティを問うにあたり、その思想家が生きた時代的文脈および社会的現実を押さえておくことは無駄ではない。本書は、作田がどのような時代を生き、自身の理論と思想を練り上げたのかという問いから出発する。本書では、作田が生きた時代を「戦後」と呼んでいる。作田の仕事の中で「戦後」という主題が明示的に扱われているのは初期のみである。しかし、本書は、作田の仕事は晩年まで「戦後」という文脈に置かれ続けたと考える立場を取る。それは、「戦後」という点において、作田思想の今日的意義が最も鮮明に現れると考えるからである。
 ただし、本書では、そのような学説史的な検討に加えて、作田が「文学」から描き出した多くの〈捨て犬たち〉の形象(figure)を「概念(concept)」という形で提示するという作業も行われている。思想家の考案する概念には、その人の生の軌跡と、その人固有の「問い」が現れる。したがって、本書では、作田が提示した〈捨て犬たち〉の概念=形象を描き出す作業を通じて、「生きているということ」の不思議さと、人間の生(life)に含まれる「希望」を問い続けた思想家としての作田の肖像(portrait)を描く。作田が考案した概念群からその思想を描き出すという内在的な読解が、本書の「方法」である2)。
 たしかに捨て犬の生涯は短い。捨て犬は誰にも守られていないからだ。しかし、捨て犬には勝者と敗者の競争とは無縁な〈力〉がある。犬一匹分の「生命力(life)」である。その〈力〉は犬一匹分に過ぎないけれども、それだけで十分だ。
 作田は、悲惨な生を送る〈捨て犬たち〉の〈力〉に根を置き、「人間の学としての社会学」の可能性をその生涯をかけて探求した。本書は「社会学者/思想家」としての作田像を描くことを通して、「社会学」が「希望の思想」としての可能性をもつことを示したい。


1)この点については、小泉義之(2006)。
2)このような読解の方法は、具体的には、「透明」という概念にJ‐J・ルソーの思想の鍵を見出したJ・スタロバンスキーや、「代補」という概念にルソーの思想の鍵を見出したJ・デリダの仕事に示唆を得ている。

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